自己啓発本は誰かの人生を変えるのか
前からそうなのか、最近の流行なのか、書店に行くと数えきれない種類の自己啓発本が並んでいる。"仕事"のみならず、"人生"を上手くいかせる為の大量のアドバイス。
どんな人達がこの本を買うのだろう。世の人々は、これを読んで本当に人生を好転させることが出来るのだろうか。気になるけど、自分が読んでみたいと思うことはない。
確かに、考え方一つで人生は違って見えてくるものだと思う。例えば、可哀そうなくらいに何が起こってもネガティブな側面しか見ることができない彼の人生を、どんなことが起こってもポジティブでいられるあの人の視点を通してみると、そこまで酷いものではない気がする。
ただ私が勝手な想像をするには、そういう自己啓発本に書いてあるようなアドバイスを必要としている人の人生は、本を読んだだけでは変えられないような気がするのだ。一瞬何かが変わったような気がしても、それはただ一時的に著者から洗脳されただけだったりするのではと、疑ってしまう。個人的には、ある程度大人になった人間が人生を変えるには、それ相応の衝撃や経験が必要だと思っている。
そして、色んなことが上手くいっている(ように見える)人の人生は、沢山の自己啓発本でアドバイスされている内容を、読むまでもなく無意識に実行できている気がする。
ということで私は、自己啓発本が誰のために書かれたものなのか分からない。
...と思ったが、本を売ることもまたひとつのビジネスなので、書いた本が想像以上に売れて、人生が変わった著者なら一定数いたりするかもしれない。
責任を背負うことで得られるお金なら要らない
私の年収は、今いる事務所の中で一番低い。
他の皆より専門性が低い役割であることも確かなのだが、それよりなにより、誰よりも背負っている責任が軽いからだと思っている。
無論、仕事なのでミスをすると誰かに迷惑がかかるし、いつも自分なりの責任感をもって仕事に臨んでいるつもりだ。ただ、それはお金をもらってやっている仕事である以上当たり前中の当たり前であって、今書きたいのはそういった次元の話ではない。
しばらく前、将来は管理職になって今よりもっと稼げるようになりたいと、安易に妄想したこともあった。しかし冷静に周りを見渡すと、「Manager」や「Director」というタイトルのつく人たちは、上司と部下に挟まれ、取引先に頭を下げ、顧客の要望に応えるべく汗水たらし、時に内輪モメ。
それをすべて解決した先にはきっと私の知らない達成感ややりがいがあり、その努力の対価として高い給与が支払われているのだろう。
高給がモチベーションになり頑張れる人がいること、仕事自体に生き甲斐や喜びを見出している人がいるであろうことは分かる。
だが、どうやら私の価値観はそのようにプログラムされていないらしい..。
そこそこな生活ができる平凡なお給料で良いから、部下に責任を持ちたくないし、いつでも好きな時に休みを取りたいし、定時で帰りたい。顧客の顔色を伺いたくないし、社内政治に巻き込まれたくもない。
なぜだか、年齢を重ねるごとに会社の中で地位を得て、Challengingな仕事を任されるようになることが社会人としての成長であり、人々は皆それを求めているのだと、長い間思い込んでいたような気がする。
私が仕事に求めているものはそれではなかった。
自分の仕事にだけ責任を持てば良く、残業もほとんどない、いつでも好きな時に有給を使えて、接客もしない、私にとってこの自由はお金に変えられない。
これが私のキャリアの選び方なのだと、今では納得している。
外資で働く人は何故 "外資系の〜"という接頭語をつけるのか
IT系企業で働いています。
金融系の業界で務めています。
そういえばいいではないか。
でも人は、外資系ITで〜 外資の金融機関で〜 という。何故だろう。
"外資"といえばある程度その会社の特徴が伝わるからかもしれない。
給料が良さそう、外国語が飛び交っていそう、社内での競争があり、仕事ができないとクビにされそう、とか?
そもそも約385万あると言われている日本の会社の中で、外資系の企業はわずか3300程度らしい。
以前ある女性に出会ったとき、彼女はこういった。
「外資系のアパレル企業で働いています。」
ふと、ファンシーなオフィスで働くおしゃれなキャリアウーマンたちを想像した。
ただ実際話をよく聞いてみると、彼女はZARAのショップ店員だった。
別にショップ店員さんを悪く言いたいわけではない。
確かにZARAはスペイン発の企業なので外資系企業なのだが、「外資系のアパレル企業で働いています。」よりも、簡単に、実際の仕事の様子を伝えられる他の言葉があっただろう? と思う。
いつかMcDonaldの店員になったら”外資系の大手外食産業業界で〜”と言おう。
”外資系”企業。
やはり人はその響きのステータスを伝えるためにそう口にするのかもしれない。